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「バトンをつなぐ」という意識

コラム

2021年5月6日

「極地法」と「急襲法」:中井久夫の治療論

それでは、トラウマが背景にある人たちの支援において生じる困難さに対して、どのようなことを意識する必要があるのでしょうか。それを考えるために、まず中井久夫の統合失調症の治療論を参考にしてみましょう。

中井久夫は、統合失調症を一つの理論に依拠して対処できない疾患であるとして「事態に対処する方法」で臨むことが適当であると述べています。この方法について、中井は登山を例にして説明します。登山には、人員と物資を集めたベースキャンプを順々に設置しながら少しずつ標高を進めていく「極地法」と、超人的な隊員が体力に任せて一気に頂上を極める「急襲法」があるといいます。中井は症例の失敗報告が急襲法に例えられるものが多いことを指摘し、中には無装備単独で麓からエベレストに登ろうとする例すらある、と述べます。

そうではなく、統合失調症に対する治療においては、次のステップに進むための基本的条件を積み重ねる極地法が適当であるとしています。狭義の精神療法は極地法で限界まで標高を高めて最後に登頂にアタックするように、すべての基本的条件が揃ったときに役に立つものであり、そしてそうした条件が満たされない時は現状維持を最良として、それ以上はボーナスと考えるのがよいというのです。

ここで中井が述べるのは統合失調症の治療となりますが、「一つの理論に依拠して対処できない」という点では、トラウマが背景にある人が抱えたさまざまな問 題と共通したものであると考えられます。「嵐のあとを生きる」彼ら・彼女らの支援においても、「急襲法」すなわちある特定の技法をどう用いるかというよりも、「極地法」すなわち治療のための基本的条件を積み重ねていくことこそが重要になると考えられます。

支援の「バトンをつなぐ」こと

そして極地法で進む登山は、決して一人で行う作業ではありません。あるところまで進めたところで、次のベースキャンプに向かうことを他の人に託すという役割を果たす人がいるということは、登頂を成功させるためにはとても大切になります。このように、自分の次の支援者がいるということを意識することがトラウマが背景にある人の支援を継続していくために、非常に重要であると考えられます。大嶋栄子は、彼ら・彼女らの支援をしていくにあたって、以下のように述べています。

一つの期間、一人の援助者がずっとその過程を伴走できるとは限りません。むしろ、そんなことは極めてまれでしょう。その長い過程のどの地点を自分は支えているのかということが見えてくると、彼女たちとのお付き合いがずいぶん楽になります。そのような俯瞰した時間軸を私たちがもてなければ、 「この支援が何になるのか」といった徒労感や無力感に私たち自身がやられてしまいます。そして、数回の出来事で「もう二度とかかわるのは嫌だ」とい う気持ちになってしまうのです。[…]ずっと伴走するのではなく次々にバトンを渡していく――このような援助観は、残念ながらまだまだ一般的でありません。[…]こうした捉え方が浸透することによって、あらゆる地域の社会資源が、その長い回復過程をどこかで支える場所になるはずだという希望を持っています。

上岡陽江・大嶋栄子(2010)その後の不自由:「嵐」のあとを生きる人たち

先の中井の極地法の例と繋げるのであれば、トラウマが背景にある人への支援においては、相談者の長い回復という登山の過程でどこのベースキャンプにいるのかを把握することが求められる、と言い得るでしょう。そこで自分が行える支援を精一杯行い、幸運にも一緒に次のステップに進めるときは進めばいいですし、進めないときは次の支援者にバトンを渡していく。トラウマが背景にある人たちの支援においては、こうした「バトンをつなぐ」という臨床観をもつことが重要になると考えられます。福祉においては、このように支援者が交代していくことを前提に行われる支援を「伴走型支援(奥田ら,2014)」として捉える見方がありますが、医療や教育といった場面でも十分に適用されると思われます。

バトンをつなぐとき、次の支援者の顔が見えるときもあれば、見えない時もあります。一見中断という形をとってしまい、無力感や挫折を味わうことは多いです。しかし、幸運にも繋がることができたケースの中に、かつての支援者とのよい関わりの痕跡を見つけることがあります。中井久夫も、慢性の患者に変化が現れた場合には、むしろ何年も前の治療努力の方が効果は大きいのではないかと書いています。真摯な関わりはその後の支援に繋がっていくという意識が、トラウマが背景にある人の支援を続けていく上で重要となる、基本的な態度になると思われます。

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